序.神につながる恵み
・私たち教会は、神によってつながれている。
・見ず知らずの他人同士が、イエス様を信じることによって同じ神の家族とされている。
エペソ2:19もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
・時代は個人主義化、孤立化が起きているが、オバデヤは神のつながりに生きる恵みを語る。
1.イスラエルとエドム
・オバデヤは南ユダ王国の出身で、BC606-586に活躍。エドム人に対する預言者。→1:1
・エドムの国はイスラエルの南の方にあり、何度もイスラエルを苦しめてきた。→民数記20:17-18
・イスラエルとエドムの先祖は双子の兄弟。イスラエル人の祖先はヤコブ、エドム人の祖先はエサウ。
アブラハム→ イサク → エサウ →→→→→→ エドム人
ヤコブ →→→→→→ イスラエル12部族
・ヤコブは兄エサウの長子権利を奪いとったことで対立関係に。→創世記25:29-25:32
・エサウは、今さえ良ければという現世主義的生き方で、神の祝福の「長子の権利」を軽蔑した。
・ヤコブの子孫は神の民の直系となり、エサウは外れていった。
2.エドムの問題
・エドムは神の民からはずれていたが、神はエドムが神の民であったことを覚えていた。
(1)エドムのたかぶりの問題 →1:3
・高ぶりは神を否定すること。
・エドムは海抜1500メートル以上の高い岩山に難攻不落の町を造り、神を恐れず慢心。
・しかし、その高ぶりは打ち砕かれる時がくる。→1:4
(2)エドムの自己中心の問題 →1:10
・イスラエルはエドムの兄弟だったが、イスラエルの苦しみの時に助けることをしなかった。
1:12 おまえは兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。
・南ユダがバビロンに攻め込まれた時も、エドムは助けようともせず嘲笑っていた。
・エドムは「自分さえ良ければ」という自己中心の態度をとっていた。
「高ぶり」と「自己中心」の問題は、神とのつながりを断っていることから派生する罪。
・エドムは孤立的、現世主義的生き方に向かっていった。
3.神のつながりに生きる
・神のつながりをもたない生き方とは、自分の人生を自分の力で歩むこと。
・神とのつながりを断つと、人々とのつながりや人生に起こるすべてのことのつながりも断つことに。
・今さえ良ければ、自分さえ良ければ、という自己中心的、現世主義的生き方は滅びに向かう。
1:15 なぜなら、【主】の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
・しかし、神につながる生き方は、神の祝福と勝利に向かうことが約束される。
1:17 しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。
・「のがれた者」とは、最後まで神につながって生きた神の民。
・神につながって生きるとは、神の支配の中に歩むことであり、神の民との関係も大切にする。
・「ヤコブの家」とは、神につながっている神の民の群れ。「領地を所有する」とは、私たちの人生のすべての領域において祝福を受けること。
・神につながる時、自分の生まれ育った環境や、その家族、属している教会、また人生の様々な経験や出来事は、神の導きと祝福の中に置かれる。
・神につながる者は、自分の関わる全ての領域…自分の地上の家族に対し、神の家族に対し、遣わされている学校や職場において果たすべき役割を期待されている。
ガラテヤ6:10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。
・エドム人のようにペトラの岩山に閉じこもる生き方ではなく、自分の人生のすべての領域が神様のつながりの中にあること信じ、全てが神の祝福を受けるよう祈りつつ、良い働きかけをしたい。